令和2年 2月

「悲しみと痛みを 忘れた世界ほど 悲しい世界はない 」

「泣ける映画」「感動できる純愛ドラマ」の類いが流行した時期があります。感動したい!思いっきり泣きたい!という人がそれだけ多かったのでしょう。かつての韓流ブームもそうした時代の一つです。一方で北朝鮮の拉致被害者家族が帰国した際、当時大流行していた「冬のソナタ」の放送が中止となり放送局に6千を超える視聴者からの抗議電話があったそうです。あまりにもドラマの世界に入りすぎ、現実にある人の痛みや悲しみが見えなく、感じなくなってしまう、正にドラマに涙しながら 涙を失ってしまった世界です。痛ましく悲しい現実世界の事実から目を背け、作り物の世界に涙と感動を求めても、それは虚構に過ぎません。虚構で代行された涙や感動は直に色あせ次なる虚構、新たな刺激を求めます。三重県員弁(いなべ)地方の葬儀では赤飯と辛子汁・涙汁(泣く程辛い激辛汁)が皆に振る舞われます赤飯は故人が極楽往生し仏と成るのだから こんな有難い事はない、喜ばんといかん、皆で祝おう!という意味があるそうです。ところが、泣きたい人達に対しては辛子汁(涙汁)を飲んでいるのだからそれも仕方が無い「大いに泣いていいんだよ」と。仏縁の尊さと共に、人の抱える現実の悲しみ・辛さにも目を向け配慮した、何とも暖かく思いやりに溢れた習慣が残っています。如何でしょう、本当の涙や感動は、現実に生きる我々の足下にこそ あるのではないでしょうか。合掌

令和2年 1月

「年を取る」生き方、「年を重ねる」生き方

日本人の平均寿命は女性が87歳、男性が81歳、日経新聞によると最高記録を更新中だそうです。寿命とはこの娑婆でのゴールのようなもの。しかし寿命もそうですが、未来というのは飽く迄も想像の世界です。しかし我々はその想像のゴールを設定して生きていますそして只管(ひたすら)ゴールに向かって走ります。後何メーター?10メーター?5メーター?と決められた距離を消化していく「引き算」をして生きています。年を「取る」生き方です。しかし私達に明日を生きる保証はありません。何時何処で死んでもおかしくありません。大袈裟かもしれませんが、毎朝が人生のお正月であり、毎夕が人生の大晦日です。私達は「初日の出」は拝みますが、大晦日に沈む夕日に手を合わせる様な習慣はありません。仏様の世界、涅槃寂静の世界は西の彼方、西方極楽浄土にございます。力強く昇る朝日より心静かに沈んでいく夕日に思いを寄せます。夕景を心に想い一日を振り返り閉じていく、一日を閉じるからこそ、新しい一日を迎える事が出来るのです。私達は昨日の続きを生きているのではありません。明日をも知れぬこの私が、新しい一日を頂いて生きているのです。寿命はあくまで結果です。一日一日の「足し算」日々是好日の積み重ねを、年を「重ねる」生き方と言うのです。「下手は結構、しかし“雑”はいけませんよ!」師の言葉を思い出す お正月です。 合掌

令和元年 12月

「人は自分の手柄に縛られ 自分を苦しめる」

誰しもが自分を貶(けな)されるより称賛(しょうさん)を受けたいと思うものです。そしてそういう心があるからこそ、あらゆる面で努力もし向上していくのでしょう。所謂(いわゆる)「モチベーション(人が行動を起こす際の動機付けや目的意識)」と言われるものです。しかしその心もいつ迄も思い通りに進まないと「自分の努力・苦労・辛抱・手柄が解ってもらえない」又、環境も馴れ合いになると「誰のお陰でこうなったと思ってるんだ」という厄介な心が顔を覗きだしてきます。時には「私さえ辛抱すれば」「私が辛抱しているからこそ」と”辛抱”を自分の手柄に、遂には信仰心や念仏を称える事迄をも手柄にし、名利(みょうり)心をかき立てます。「名利」とは名聞・利養を略した語で、名声を求める心と利を得て我が身を肥やそうという貪(むさぼ)りの心という意味です。當麻の源信(げんしん)僧都(そうず)が「出離(しゅつり)の最後の怨(おん)は、名利より大なる者は莫(な)き事」と著書の「往生(おうじょう)要集(ようしゅう)」に書かれています。名誉や財産を求め、貪る心を超える事は求道の最後の難関であるとされてきました。仏教は物事の全ては「縁」によって生じ、成り立っていると教えられます。我が身の存在も含め 何一つ我が手柄に出来る物など何も無く、我が身を含め、全ては大きな”働き”の中に在るのだと教えられています。手柄を求める事が悪い事という訳ではありません。ただ私達を苦しめている正体は社会や他人でなく、自身の内にあるという事なのです。合掌    (いのちのことばⅡより)