毎月7日頃、お寺の掲示板に掲示致します「一言」を、その味わいと共にご紹介致します。

令和2年 9月

逆光も また「光」なり

あるお寺にお説教に出かけた折、婦人会の方がお仲間の七十歳前後のご婦人をさして「あの人は年の割にいつも元気で、お肌も艶々してて羨ましいわ~」と羨望の眼差しで見つめておられました。普段から地域やお寺等の集まりにも積極的に参加し、多趣味でよく旅行にもお出かけになるそうです。「自分磨きにお金と時間をかけられる人はええな~、そら艶も出はるわ」・・・ なるほど、羨ましいと言うよりも少々嫉妬心もあるようです。しかし(ただ)磨けば艶が出ると言う ものではないと思うのです。どれだけ永い時間をかけ、必死に磨き続けてみても磨くだけでは艶が出る事はありません。艶を出すには磨いた所に「光」が必要なのです。御内仏のご本尊の脇軸に「帰命尽(きみょうじん)十方(じっぽう)無碍光(むげこう)如来(にょらい)」とあります。尽十方無碍光如来とは阿弥陀様の別称ですが、あらゆる方向に、何処までも尽きる事なく、何者にも()げられる事のない、永遠の光を放つ仏様という意味です。しかしその光は決して順光(都合の良い光)ばかりではありません。 時には逆光(都合の悪い光)に向き合わなければならない事もあるでしょう。()のご婦人も、 ()から見ていると順光に恵まれた日々の様に見えるのでしょうが、私達には想像もつかないご苦労もあった事でしょう。仏教に説かれる「苦を苦として受け止める」という事は「考え方を変え、良い方に捉え前向きに生きましょう」等というものではありません。それは所詮その場限りの誤魔化しでしかないのです。よく「ありのままの私を受け入れて欲しい」という事を聞きますが、それと同じように「苦」もまたありのままに受け入れて行くことが大事なのです。その為には「仏法」という光が欠かせません。艶のある人生には必ず光があるはずです。合 掌

令和2年 8月

生の縁は無量であり 死の縁もまた無量である

一つの命が今ここにある事実。その背景には、数え切れない、理解し得ない程の様々な「縁」が関わっています。産んでくれた親や、現世まで命のバトンを繋いで下さった先達、水や空気、衣食住や労働、学業に関しても、様々な縁が絡み合い重なり合いして、今現在があるのです。「生」はその一つの結果に過ぎません。そして同じ様に「死」もまた我々の人智を超えた無量の縁によって整っていきます。そしてここで大切な事は、生の縁は良縁、死の縁は悪縁と、その「縁」を身勝手には選べない、仕分ける事は出来ないという事なのです。「生」と「死」は表裏一体であり、紙切れの表と裏の様なもの。うかうかしていると どちらが表で、どちらが裏かも解らなくなってしまいます。

一人の女性がALSという病の縁を受けました。とても芯の強い知的な方だったようです。そして彼女はその病に果敢に挑み、この「縁」に対して真正面から向き合われ、生きました。苦しみ、落胆、絶望、その様な思いが繰り返えされる日々であったかと拝察致しますが、彼女は生きようとされました。結果として彼女は死をむかえましたが、発病から臨終まで、彼女にも様々な縁があった事でしょう。件の容疑者との縁も含め、その一つ一つの縁が、生の縁か死の縁か、紙の表だったのか裏だったのかは、どれだけ一生懸命に考えたところで、到底量り知る事は出来ません。その解らんものを解らんものと して受け入れられないところに人間の苦しみの元があるのです。彼女は現代に生きる我々に「命」に対する大きな問いを投げかけて逝かれました。 合 掌

令和2年 7月

「退屈」とは、道を絶たれた者の姿です

色々と解除はされましたが、まだまだ元通りの生活には至らぬ様で、好きな様に外出も出来ず二言目には「あ~退屈や、全然おもろない」と言うような声をよく耳にします。随分と時間を持て余している方がいらっしゃるようですが、この「退屈(たいくつ)」という言葉。現代では「暇で特にする事もなく、飽きる様子」と言うように取られますが、元々は大切な仏教の言葉の一つで、僧が仏道修行の厳しさに〝屈(くつ)し、退(しりぞ)いて〟しまう。そういう姿を「退屈」と言われました。仏道に生きようと決心した者が志(こころざし)半(なか)ばに挫折し、そのまま進むべき道を見失ってしまえば後は飽き飽きと人生を送り、空しく閉じて逝くだけである。という随分と手厳しい言葉のようです。しかし現代を生きる我々は、ゆっくりと「退屈」する事すら許されないようで、毎日分単位で、国の内外を問わずにありとあらゆる情報が、新聞・スマホ・テレビ・ラジオ等を通して、こちらが意識して遮断せぬ限り、休む間もなく流れ込んできます。更にその中で少しでも興味のある物事があればいくらでも追いかけていけます。そしてそれは私達の脳を刺激し 一つの快楽として捉(とら)えます。言い換えれば現代人の退屈は「心身に与える刺激的な情報が遮断された時」と言えるかも知れません。退屈とは、己自身がしなければならない事、すべき事を見失ってしまった時に自らが起こす黄色(注意)信号なのです。退屈を暇つぶしで解消させてはいけません。退屈は「見失ってしまった本当の志(道)を見つけなさい」と、進むべき方向を促す、自らの内に宿る仏心からのメッセージなのです。合 掌

令和2年 6月

「踏まれた者」と「踏んだ者」 中々出会えぬ者、ふたり

人との関わりの中で生きていますと様々な問題にぶつかります。そしてその問題の殆どは思うようには解決に至りません。その原因の一つには「された側」と「する側」で、その認識に大きな隔たりがあるからです。少し言い方を変えてみますと「踏まれた者」と「踏んだ者」。「踏まれた者」は痛みを感じますが「踏んだ者」はその痛みは解りません。解ったとしてもそれはイメージの上だけで、中には踏んだ事すら気付かない者もいます。「痛いと言う者」と「痛みの解らない者」「踏んだ自覚の無い者」が本当の意味で〝出会う〟はずはありません。SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の中での誹謗中傷による自殺問題が連日報道され社会問題となっています。「指殺人」という言葉まで生まれてしまい、人智や善意では中々解決の糸口が見つかりません。仮に立件され謝罪したとしても「踏んだ者」は事件の大きさは解っても、被害者の身体的・心的な本当の痛みは何処までいっても解らないでしょう。しかしそれ以上に厄介な事は「踏んだ者」が「踏まれた者」、「踏まれた者」が「踏んだ者」にいつでも成り代わり得るという人間の持つ事実の方です。そこで仏は説かれます、大切な事は「ごめんなさい、踏まれた者の痛みが解りません。教えて下さい」と〝聞く者・聞ける者〟になりなさいと言う事です。人は他人との関わりの「間」で生きています。それを〝人間〟と呼びます。人が人を評価し、ジャッジして回る事が「間」を生きるという事なのでしょうか? 聞く者になれないところに、数多の問題が解決に至らぬ本があるように思います。合 掌

令和2年 5月

人間は環境を作り替える能力がある。他の動物は環境に順応する能力がある。 さて、本当の賢者とはどちらなのだろう

コロナ騒ぎが始まって二ヶ月以上が経ちました。思いもよらない長期戦に、新聞やテレビ等では、毎日のように人々の精神的・身体的ストレスの記事が目につきます。そしてその不満やストレスの矛先(ほこさき)は国や政府へと向けられ、各新聞社・放送局によって好き勝手に報道されています。放送では「ワンチーム」等と叫んではいますが、一億二千万もの国民がいれば、それだけの都合・事情があるでしょう。その全てが一致団結となると中々難しいお話しです。我々はどうしても自分の足下や周りから整えようとしますし、優先もします。勿論それが悪いという訳ではありません。ところで皆さんは「外道(げどう)」という言葉をご存じでしょうか?一般的には「本道から外れた道」や「間違った道」等と取られがちですが、元々は仏教の言葉で「外に道を求める」という意味で使われます。具体的には自身が抱える問題の原因を全て周囲(外)の所為(せい)にし、更にはその解決迄をも周囲(外)に求める。という意味です。しかし本来の仏教、特に我々 真宗では「内観(ないかん)」という事を重んじます。自身の思いや都合に縛られ、望み通りの環境・条件を願い、現実に抗(あらが)う自己の〝 内 〟にこそ問題の原因は存在し、根本解決の道はそこにしか無いのだと教えられるのです。それこそ今我々はコロナにより大きく環境や条件が崩され、戸惑いながらも立ち向かい収束をはかります。しかし、そもそも私達は一体何をそんなに恐(おそ)れ抗(あらが)うのでしょう?コロナさえ収束すれば全ては 解決するのでしょうか?私はこのような時こそ仏法に問うていく善い機縁だと思うのです。合 掌

令和2年 4月

「当時この頃、事の他に疫癘(えきれい)とて人死去(しきょ)す。これ更に疫癘(えきれい)によりて始めて死するにはあらず産まれ始めしよりして定まれる定業(じょうごう)也。さのみ深く驚くまじき事なり。しかれども今の時分に当りて、死去する時は、さもありぬべき様に皆ひと思えり。これ誠に道理ぞかし」この故に阿弥陀如来の仰せられける様は「末代(まつだい)の凡夫(ぼんぶ) 罪業(ざいごう)の我らたらん者、罪は如何ほど深くとも、我を一心に頼まん衆生をば、必ず拯(すく)うべし」と仰せられたり。『御文第四帖第九通』

右の文は、一四九二年、今から五二八年前、本願寺八代 蓮如上人が七十八歳の折、地方の門徒衆宛に書かれた御手紙『御文』の中の、第四帖九通目の一文です。現代語に直しますと「近頃、流り病を患い亡くなる人が多い。しかし考えてみれば、本来 流り病が原因で死んだという訳ではない。この世に生まれた時既にに『生あるものは必ず死に帰す』と、定まった道理によって亡くなったのである。とすれば、それ程に驚く様な事ではないはずである。とは言え、この時節「流り病で亡くなった」と言えば「そういう事か」と世間は得心する。これも実際最もな話である」と前の三行に。確かにそうなのでしょう。しかしそうは言うても・・・。というのが我々の本音です。しかしそこを見据えて次の言葉が続きます。 『この故に』(だから)です。「こうして道理を説いてみても心底飲み込めないのが人間です〝だから〟阿弥陀如来は「自我に翻弄され、世の道理に反し迷いし者も、この『弥陀』を一心に頼めば必ず拯(すく)うてみせる」と誓われるのです。勿論これは、だから安心して死になさい等という様なお話ではありません。寧(むし)ろどのような状況に立たされようと「怖がる事は何もない先の心配は御仏に任せ、今目前に与えられたその場、この時を力の限り生きなさい」というお言葉(御教え)を綴った五百年以上も前に書かれた〝生きる〟為の御手紙なのです。合掌

令和2年 3月

仏道は、「問い」にはじまる道である

かつて釈尊は生老病死という「問い」を抱き「仏道」という「道」を明らかにされました。それから凡そ(およそ)2600年。現代、特に日本に住む我々は、物質的には何不自由無く暮らせる世の中を生きています。しかしその反面、沢山の人々が心底に「満たされなさ」「空しさ」を抱えこんで生きているのも事実です。これだけ世の中が豊かになると、満たされていて正解、そうでない者は何かが間違っている、脱落者であるとみなされる。そうなるのは嫌だから世間と足並みを揃え、満たされている振りをし、共感の中で居場所を作る。と成るのです。虚無感から目を反らし本来各々にあるはずの人生への「問い」。その質を深める事を避け、器用にその場を無難にこなし、事無き事が正解であると、快楽的な刺激や楽しさを求め「悩めない人」が増えていると言われます。「思いやり・助け合い」「共に・一緒に」と耳障りの良い言葉が乱用されていますが、ウイルスが出れば即隔離し、人の事などお構いなしにマスクもトイレットペーパーも買い漁り、世界中で東洋人が差別される始末。それを一人がすればこれでもかという位に叩き、大多数であれば許される。それが我々の現実の姿なのです。釈尊はそれを改めなさいとは言いません。そんな自分から目を反らさず、自身を誤魔化さずに向き合うて生きなさい。自身を問うて生きなさい。それこそが「仏道」なのだと導かれます。心理学者のフランクルは「人間は、人生から問われている存在である」という言葉を残しています。仏教とは理想郷(果)を手に入れる為の教えではありません。人間が持つ、根源的な「問い」の発見・追求こそが仏道の始まりなのです。合掌

令和2年 2月

「悲しみと痛みを 忘れた世界ほど 悲しい世界はない 」

「泣ける映画」「感動できる純愛ドラマ」の類いが流行した時期があります。感動したい!思いっきり泣きたい!という人がそれだけ多かったのでしょう。かつての韓流ブームもそうした時代の一つです。一方で北朝鮮の拉致被害者家族が帰国した際、当時大流行していた「冬のソナタ」の放送が中止となり放送局に6千を超える視聴者からの抗議電話があったそうです。あまりにもドラマの世界に入りすぎ、現実にある人の痛みや悲しみが見えなく、感じなくなってしまう、正にドラマに涙しながら 涙を失ってしまった世界です。痛ましく悲しい現実世界の事実から目を背け、作り物の世界に涙と感動を求めても、それは虚構に過ぎません。虚構で代行された涙や感動は直に色あせ次なる虚構、新たな刺激を求めます。三重県員弁(いなべ)地方の葬儀では赤飯と辛子汁・涙汁(泣く程辛い激辛汁)が皆に振る舞われます赤飯は故人が極楽往生し仏と成るのだから こんな有難い事はない、喜ばんといかん、皆で祝おう!という意味があるそうです。ところが、泣きたい人達に対しては辛子汁(涙汁)を飲んでいるのだからそれも仕方が無い「大いに泣いていいんだよ」と。仏縁の尊さと共に、人の抱える現実の悲しみ・辛さにも目を向け配慮した、何とも暖かく思いやりに溢れた習慣が残っています。如何でしょう、本当の涙や感動は、現実に生きる我々の足下にこそ あるのではないでしょうか。合掌

令和2年 1月

「年を取る」生き方、「年を重ねる」生き方

日本人の平均寿命は女性が87歳、男性が81歳、日経新聞によると最高記録を更新中だそうです。寿命とはこの娑婆でのゴールのようなもの。しかし寿命もそうですが、未来というのは飽く迄も想像の世界です。しかし我々はその想像のゴールを設定して生きていますそして只管(ひたすら)ゴールに向かって走ります。後何メーター?10メーター?5メーター?と決められた距離を消化していく「引き算」をして生きています。年を「取る」生き方です。しかし私達に明日を生きる保証はありません。何時何処で死んでもおかしくありません。大袈裟かもしれませんが、毎朝が人生のお正月であり、毎夕が人生の大晦日です。私達は「初日の出」は拝みますが、大晦日に沈む夕日に手を合わせる様な習慣はありません。仏様の世界、涅槃寂静の世界は西の彼方、西方極楽浄土にございます。力強く昇る朝日より心静かに沈んでいく夕日に思いを寄せます。夕景を心に想い一日を振り返り閉じていく、一日を閉じるからこそ、新しい一日を迎える事が出来るのです。私達は昨日の続きを生きているのではありません。明日をも知れぬこの私が、新しい一日を頂いて生きているのです。寿命はあくまで結果です。一日一日の「足し算」日々是好日の積み重ねを、年を「重ねる」生き方と言うのです。「下手は結構、しかし“雑”はいけませんよ!」師の言葉を思い出す お正月です。 合掌

令和元年 12月

「人は自分の手柄に縛られ 自分を苦しめる」

誰しもが自分を貶(けな)されるより称賛(しょうさん)を受けたいと思うものです。そしてそういう心があるからこそ、あらゆる面で努力もし向上していくのでしょう。所謂(いわゆる)「モチベーション(人が行動を起こす際の動機付けや目的意識)」と言われるものです。しかしその心もいつ迄も思い通りに進まないと「自分の努力・苦労・辛抱・手柄が解ってもらえない」又、環境も馴れ合いになると「誰のお陰でこうなったと思ってるんだ」という厄介な心が顔を覗きだしてきます。時には「私さえ辛抱すれば」「私が辛抱しているからこそ」と”辛抱”を自分の手柄に、遂には信仰心や念仏を称える事迄をも手柄にし、名利(みょうり)心をかき立てます。「名利」とは名聞・利養を略した語で、名声を求める心と利を得て我が身を肥やそうという貪(むさぼ)りの心という意味です。當麻の源信(げんしん)僧都(そうず)が「出離(しゅつり)の最後の怨(おん)は、名利より大なる者は莫(な)き事」と著書の「往生(おうじょう)要集(ようしゅう)」に書かれています。名誉や財産を求め、貪る心を超える事は求道の最後の難関であるとされてきました。仏教は物事の全ては「縁」によって生じ、成り立っていると教えられます。我が身の存在も含め 何一つ我が手柄に出来る物など何も無く、我が身を含め、全ては大きな”働き”の中に在るのだと教えられています。手柄を求める事が悪い事という訳ではありません。ただ私達を苦しめている正体は社会や他人でなく、自身の内にあるという事なのです。合掌    (いのちのことばⅡより)