逆光も また「光」なり

あるお寺にお説教に出かけた折、婦人会の方がお仲間の七十歳前後のご婦人をさして「あの人は年の割にいつも元気で、お肌も艶々してて羨ましいわ~」と羨望の眼差しで見つめておられました。普段から地域やお寺等の集まりにも積極的に参加し、多趣味でよく旅行にもお出かけになるそうです。「自分磨きにお金と時間をかけられる人はええな~、そら艶も出はるわ」・・・ なるほど、羨ましいと言うよりも少々嫉妬心もあるようです。しかし()磨けば艶が出ると言う ものではないと思うのです。どれだけ永い時間をかけ、必死に磨き続けてみても磨くだけでは艶が出る事はありません。艶を出すには磨いた所に「光」が必要なのです。御内仏のご本尊の脇軸に「帰命尽(きみょうじん)十方(じっぽう)無碍光(むげこう)如来(にょらい)」とあります。尽十方無碍光如来とは阿弥陀様の別称ですが、あらゆる方向に、何処までも尽きる事なく、何者にも(さまた)げられる事のない、永遠の光を放つ仏様という意味です。しかしその光は決して順光(都合の良い光)ばかりではありません。時には逆光(都合の悪い光)に向き合わなければならない事もあるでしょう。(くだん)のご婦人も、(はた)から見ていると順光に恵まれた日々の様に見えるのでしょうが、私達には想像もつかないご苦労もあった事でしょう。仏教に説かれる「苦を苦として受け止める」という事は「考え方を変え、良い方に捉え前向きに生きましょう」等というものではありません。それは所詮その場限りの誤魔化しでしかないのです。よく「ありのままの私を受け入れて欲しい」という事を聞きますが、それと同じように「苦」もまたありのままに受け入れて行くことが大事なのです。その為には「仏法」という光が欠かせません。艶のある人生には必ず光があるはずです。合掌

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