愚か者と気がつけば人に教えを聞く心になる―高光大船―

人間という生き物がこの世に誕生し幾日が経つのでしょう。日進月歩であることは間違いありません。二本足で歩き、手を使う事を覚え、火をおこし、道具を使う事を身に付け、文明というものを持ち始めました。そして何時の頃からか賢者となる事こそが人間の目標であり愚者である事は否定される様になりました。酷い言い方をすれば、認められない、許されない「何か問題があるのだろう、遠慮して頂こう」とレッテルを貼られてしまいます。

しかし、自分自身を見つめてみますと、頑張ってはみるがどう仕様もない自分に出会う事があります。もう打つ手が無い、これだけしても無理なのかと。そこには自分が頑張る事しか思い付かない、頑張って努力さえすれば〝何とかなる〟という自負心が拭えない「我」が見え隠れ致します。「仏法」というものは自身の愚かなる事を素直に見つめさせて頂く教えです。その「愚」とは、決して他者との能力の優劣を比べているのではありません。自分自身の事や自身を取り巻き「私」として成り立たせている様々な条件(御縁)に気がつかず。そして何より釈迦の説かれる道理(縁起の理法)に暗く、誠を知らず、自我の中で〝解ったつもり、解った気〟になって右往左往している我々の姿をもって「愚者」といわれるのです。そしてその事は、仏法に依りながら生きている、又は生きた方から学ばせて頂くしか無いのです。 法然上人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と言われました。大事な一言です。合掌 南御堂掲示板より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください